ぶらっぷ 観光ポータルサイト

見る/史跡
[エリア:飯島町]
口コミコメントをみる
飯島氏墓所
上伊那郡飯島町にあるお墓です。

飯島氏は清和源氏片切氏の支流です。

寿永年間に片切為行の子為綱が二郎大夫を称して飯島本郷に居を構え、その子為光が飯島姓を称しました。

為光は飯島郷の地頭となり、承久の乱に出陣しています。

飯島氏の子孫は、同族片切氏とともに向背をともにし、元弘、建武以後は信濃守護となった小笠原氏の麾下となり、北朝方として行動しました。

七代為光、六代為清の兄の子正運、五代為泰の弟の子総運は三檀那といわれ、飯島氏の開基になる臨済宗西岸寺に寺領を寄進を行い、同寺を隆昌させました。

また同寺は、応安六年には室町幕府より諸山の位を授かりました。

十五世紀前半のころには、片切氏に代わって、片切領全体をほぼ手中に納めていたことが想像されます。

また、これより先の応永の頃(1394~1427)には、若狭守為則が小笠原家に属したことが知られ、永和二年(1376)頃の古文書には次郎三郎入道宗貞・弥三郎入道・掃部入道の名が散見するが、かれらの系図上の位置関係は不詳です。

戦国時代の天文年中(1532~54)、隣国甲斐の戦国大名武田氏が信濃に攻め入ったとき、松尾の小笠原信定の手に属して、武田軍を迎え撃ちました。

しかし、天文二十三年(1554)武田晴信は再び伊那郡に侵攻し、知久氏領にまでその武威を輝かしました。

これに対して、伊那郡の諸将士は動揺し、武田軍に降る者、あるいは国外に逃亡する者などに分かれました。

そして、伊那部・宮田・殿島の三氏は晴信に滅ぼされ、飯島・片切・上穂・赤須・大嶋の五人衆は晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服しました。
かくして、飯島氏は、甲斐武田氏の配下に入り、信州先方衆の一翼を担いました。

永禄十年(1567)、生島足島神社において飯島大和守為方は武田氏に起請文を出し、飯島為政は片切為房・伴野三衛門と連名の起請文を差し出しています。

天正十年(1582)、織田軍の武田氏討伐戦が起こされ、伊那郡には信長の嫡子信忠の軍が攻め込んできました。

結果、飯島氏らは故地を逐われました。

その後、信長が本能寺で殺されえると、飯島氏の支族で山県衆であった飯島作右衛門大尉、原隼人正衆の作三郎、その他飯島伝三郎、同宮内大輔らは徳川家康に帰属し、飯島右馬助、同弥兵衛らは小笠原家の家臣となりました。
また、別説に従えば、飯島氏十一代為昌と十二代為直は、永禄十年小県郡生島足島神社に武田氏への起請文を出したと言われています。

そして、戦国時代後期の天正十年、武田氏滅亡に際して為次(重家とも)は高遠城を守り、織田氏の伊那谷攻略で一族とともに戦死した。と、伝えています。

その後裔は徳川氏に属して、関ヶ原の合戦や大阪夏の陣に出陣したが、のちに故地に戻って帰農。

江戸時代は、代々伊那郡石曾根村の名主役を務めたといいます。

いずれにしろ、平安後期より、信州の地に武士として続いた飯島氏は戦国時代の荒波に翻弄され、ついには、武士を捨て安住の地を得たといます。


[住所]〒399-3704
長野県上伊那郡飯島町本郷
[TEL]-
[FAX]-
[url]
[E-mail]-
[料金]-
[営業時間]-
[休日]-
[駐車場]100台台
[アクセス]自動車利用:駒ヶ根ICから15.5km 約32分
自動車利用:松川ICから10.0km 約27分
鉄道利用:JR飯田線伊那本郷駅下車タクシー900m 約8分
鉄道利用:JR飯田線伊那本郷駅下車徒歩850m 約10分

~近隣施設~
本郷神社
[エリア]飯島町
[カテゴリ] 見る > 神社・仏閣

白山神社
[エリア]中川村
[カテゴリ] 見る > 神社・仏閣

飯島町営本郷運動場
[エリア]飯島町
[カテゴリ] 遊ぶ > スポーツ・施設

大宮飯沼神社
[エリア]中川村
[カテゴリ] 見る > 神社・仏閣

洲原神社
[エリア]飯島町
[カテゴリ] 見る > 神社・仏閣


ぶらっぷモバイルトップへ
Copyright (C) 2010-2011 wave Corporation. All Rights Reserved.